『月刊美術』1999年12月号掲載

カンボジア

籔内佐斗司(彫刻家)

 私は、いたって出不精なものですから、外国に出かけるのは苦手です。しかし今年は海外に出かける年回りのようで、三回のフランス詣でに続いて、10月中旬に一週間、タイ、カンボジア、香港へ駆け足旅行に行ってきました。この方面にはまったく不案内な私でしたが、七人の旅なれたご同行のあたたかいお心配りのおかげで、東南アジア初体験を満喫することができました。
 かつて往年の碩学は「インドで考えたこと」なる名随想を残しましたが、今回のやぶにらみは、大いなる菲才がカンボジアでさまざまに迷想したことを書き散らします。
 旅の最大の目的は、アンコールワットとその周辺のクメール遺跡を巡ることでした。飛行機の窓から見るカンボジアは、広大な水平面を持つ湿地帯といった感じです。水面下には水田があり、森があり、その中には遺跡も眠っているのでしょう。どこまでも広がる田園地帯と椰子やバナナの木々を見ていると、ポルポト時代の悲劇や長かった内戦がうそのようでした。  カンボジア奥地のシェムリアップ空港から、ホテルに向かう大通りに面した街の中心部には、満足な家屋や商店すらまばらです。自転車と原付バイクに混じって、旧式のトラックがひとを満載して驀進しています。ときおり出くわす昔懐かしい小型三輪のダイハツミゼットの勇姿は、この街の風景にとてもよく馴染んでいました。そういえば、前日まで滞在したタイのバンコク市街は、昭和三十年代の大阪市内とそっくりでしたが、この街は同じころの大阪郊外の田園地帯を連想しました。「初めてなのに懐かしい」とは韓国の観光コピーでしたけれど、ここにもぴったりあてはまります。
森の仲間たちより-ちょう-(ブロンズ)
 宿泊先のグランドホテルはシアヌーク国王の別荘の向いにあって、この一帯だけは、ヨーロッパの高級車が停まり、ホテルのなかは冷房がよく利いた別世界です。素敵なインテリアは、この国がフランスの植民地であったことを思い出させるおしゃれでとても快適な空間でした。

 昼食のあと、早速アンコールワットを見学し、翌日は、十世紀の精緻な彫刻が見事に残るバンテアイスレイ、大きな顔の彫刻が印象的なバイヨン、樹根が建造物に蛇のように絡みついたタプロームなどを巡りました。それぞれの遺跡については稿を改めるとして、ともかくこれらの圧倒的な石の量を前にすると、わが国がじつに軽やかで華奢な木の文化であったことを思い知らされました。遠いヨーロッパではなんの違和感もなく受け入れたこの思いですが、時差がたった二時間、ひとびとの顔も知り合いの誰かしらに必ず似ているこの地域で、かくも重厚な石造文化に出会ったことは、すくなからぬ衝撃でした。


-かめ-(ブロンズ)

蓮の手


 田園地帯のぬかるんだ赤土の道沿いには、バナナの葉っぱで覆われたお世辞にも立派とはいえない家が点在していて、牛や水牛や痩せた犬がどこにでものんびりと歩きまわっています。家の前に掘られた池には、蓮や睡蓮がほんとうに美しい花を咲かせています。
 しかしアンコールワットの参道に坐り込んだたくさんの乞食をよく見ると、足や腕がなかったり、顔がゆがんでいたりしています。国民の数よりも多いという地雷による犠牲者であることは明白で、この国の重い現実を知らされました。
 また、どの遺跡に行ってもすぐに小さな物売りたちに囲まれてしまいました。日本人と見ると「おにっさん、本買ってよ。写真きれい。10ドル。」「おにっさん、ティーシャツ買ってよ。5ドル。おにっさん!」「しゃしんふいるむ、いらない?」 言葉が得意でない小さなこどもは、ぼろぼろになった扇子で、一生懸命無言で扇いでくれます。彼らのうしろには、原付バイクに跨ったお姉さんが目を光らせていますから、5〜6人のよく訓練されたチームで動いていることがわかります。ガイドに聞くと、家で牛追いをしたり田んぼの手伝いをしているよりは金回りはよくて、けっして悲惨なこどもたちではないとのことでした。たしかに、みんな健康状態もよさそうですし、卑屈で殺伐とした感じがしなかったのにはほっとさせられました。


 近代日本が、猛烈な経済発展と引き換えに失ってしまったものを、私はカンボジアではっきり認識しました。また近年の文化財保護行政のお陰で、奈良や京都の歴史遺産はきれいに整備され、観光客の便はきわめてよくなりましたが、日本人の美学の底流にあった「無常観」は忘れられました。最近、明日香の石舞台や宇治の平等院周辺を訪れたときの失望感に比べ、カンボジアの遺跡が与えてくれた感動はそのことをあらためて思い出させてくれました。
 今回の短い旅行は、私の遺伝子のある部分をいたく刺激し、日本を見つめ直す旅となりました。この経験は、あとでじんわりと効いてきそうな予感がします。


牽牛童子

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