『月刊美術』2001年3月号掲載

楽観道

籔内佐斗司(彫刻家)


楽観坊(版画)
 ことば遊びにちょっとお付き合いください。
 食事のとき、好きなものから順番に食べていくひとと、嫌いなものから食べていくひとがいます。あなたはどちらのタイプでしょう?
 まず、「好きなものから順番に食べていくひとは、嫌いなものばかり残ってまずくなる一方だが、嫌いなものから食べていくひとは、一番好きなものを最後に味わう楽しみがある。」と考えることができます。一方、「好きなものから選んで食べていくひとは、最後まで好きなものを選びつづけることができるけれど、後者は嫌いなものばかりを選んで食べ続けることになるから、不幸な食べ方だ」という意見もあるでしょう。
 もちろん食事の取り方として、前者か後者かではなく、本人が楽しく美味しく食事ができるのであればどちらもよい方法であることはいうまでもありません。
 おなじようなことが、人生でもいえます。ひとはいつか必ずその生命を閉じるときが来ます。しかしそれがいつなのか、どんな風に訪れるのか知っているひとは誰もいません。時々刻々とあらわれる人生の選択肢は、料理を食べているのと似ています。目の前の料理を感謝して美味しく頂くことが最善の道です。いちいちけちをつけながら食べていてはせっかくの料理も台無しです。私はこの処世術を「楽観道」と名付けました。刹那的な快楽主義や逃避主義ではなく、「楽観道」は、つねに感謝の裏打ちを必要とします。
 知るすべのない「その日」を楽観的に迎えるために宗教の存在意義があります。宗教者たちは、往生や涅槃、空、造物主との一体化、輪廻転生などさまざまな表現で「その日」を安らかに迎えられる論理やイメージをひとびとに与えようとしてきました。現代は、宗教氾濫の時代です。究極的楽観にいたる条理を多くのひとびとが見失っているからだと思います。

歓呼酉

寿童子

 人生は、やり直しも二つ道を行くこともできません。いくつもある選択肢のなかからたった一つの道を選びながら生きていく大きな「あみだくじ」のようなもので、今の自分は生まれたときからの無数の選択の集積だといえます。悪しき選択を悔やむのではなく、いつでも次のよりよき選択ができる姿勢でいたいと考えています。たとえ耐えきれないようなことが起きた時にも、正気である限りそう思って乗り切りたいものです。
 新幹線の車内にビジネス雑誌が置いてあります。創刊されて間もない頃、その記事の基調はとても楽観的でした。単純な私は読んでいて気持が楽になって、旅ごころも浮き立ちました。しかし近年、この雑誌の見出しがやたらに悲観的表現になり、読者の不安をいたずらに煽ろうとしているかのようです。今では拾い読みをする気もおきません。不幸を増殖するような編集方針をご一考頂けたらと願っています。
 夜中のニュースショーも同様の姿勢です。眉間に皺を寄せたキャスターの物言いは世の中のすべての出来事が悪い方にしか向かわないかのようです。彼らは視聴者を不安にすることがマスコミの使命であると錯覚しています。もし彼らの言うとおりに事態が推移していったら、日本経済も世界平和もとっくに破滅していたはずです。公器は予測される危険に対し事前に警鐘を鳴らす使命があります。しかしそれだけでは非常ベルと変わりません。やかましく騒ぎ立てパニックを肥大化させるだけです。公器たるもの、警鐘とともに光明を示し、ひとびとを導く義務があります。もちろん、戦時中の大本営発表のような嘘をついて、人心を鼓舞してはならないのはいうまでもありませんが。
 悲観論は金になるけれど、楽観論は金にならない、とどこかで聞いたことがあります。ノストラダムスの空騒ぎはついこの間のことですし、Y2K(2000年)問題も記憶に新しいことです。台風が来るぞ、大災害が起こるぞ、飛行機が落ちるぞ、と書けば、みんなその詳細な情報を欲しがりますが、台風は去った、あとは天気になるぞ、という情報には飛びつかないものです。
 今や世間は悲観論の大洪水です。それは悲観論をいえばお金になるひとがいるからに過ぎません。日々の暮らしに「楽観道」をお奨めします。上向けばお日さまの恩恵をいただき、うつむけば百円玉を拾えます。憂い顔と眉間の皺は、貧乏神の好物です。

雲上快晴天道童子

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