『月刊美術』2001年6月号掲載

藤井さん

籔内佐斗司(彫刻家)

 今から十五年ほど前のこと、私は東京芸大の保存修復技術研究室(現在は文化財保存学専攻)で助手をしていました。ちょうど講座人事の入れ替えがあり、平山郁夫先生が日本画科との兼務でお越しになって再出発をしたばかりの時期でした。
 そのころ、銀座のある老舗画商の奥さまが世話人となって、平山先生門下の若い画家たちを応援する「鳳の会」が組織され、銀座の柊美術店を会場に毎年発表展が開かれていました。彫刻実習室の片隅で自分の作品を作っていた私にもお声がかかり、場違いながら木彫りに漆を塗った「お面」を出品しました。そのころの私は、古典技法から学んだ漆や彩色の技法を自分の制作に生かせないものかと試行錯誤していた時でした。
 ある日展覧会の会場へ行くと、世話人のご婦人が「あんたの作品を藤井さんがこうてくれはったんよ。あんたは知らんやろうけど、藤井さんゆうたらたいへんな大手よ!」とおっしゃいました。確かに「藤井さん」が業界屈指の画廊「フジヰ画廊」創業者の藤井一雄氏であることを私が知ったのはずいぶん後になってからのことです。なにしろ当時の私は、お店の看板を「フジキ画廊」だと読み間違えていたくらいですから。

霊峰童子

上向き童子’93
 さてその数日後、作品の桐箱を持ってお店にお伺いしたときに、はじめて藤井さんにお目にかかりました。社長室の棚に私のお面が置いてありました。
 小柄ながら背筋をぴんと張り、特徴のある眉毛や精悍な顔立ち、何よりも好奇心に満ちたその眼差しが印象的でした。私にとっては父親の世代にあたり、実際ご子息の龍一氏と私は同い年でした。緊張しながらも、今まで作ってきた作品やこれから挑戦しようとしている「古典技法を現代の彫刻のなかに蘇らせる試み」について夢中でお話したことを覚えています。
 それからしばらくして、藤井さんからもう一度画廊へ来るように連絡がありました。何事かと思って伺うと、「あなたに連絡を取ろうと思って美術年鑑やいろんな名簿を探したけれどどこにも載ってやしないんだね。探すのに苦労しましたよ。ところでうちで個展をやりませんか。」と唐突にいわれました。
 それから半年後に当時アートサロンと呼ばれていたギャラリーで私の個展が開かれました。貸画廊しか知らなかった私は、案内状や立派な図録を画廊で作っていただいたうえ、作品をすべて買い取ってもらって夢のようでした。そして作品につぎつぎと赤い売約の印がついていくのを呆然と眺めているばかりでした。
 翌年、私は芸大の研究室を辞め、浅草にほどちかい稲荷町に小さな仕事場を借りて独り立ちをしました。もちろんそうする決断ができたのは藤井さんが継続的に個展をすることを提案してくださったからでした。
 余談ながら本誌「月刊美術」も、創刊の時から藤井さんとは少なからぬご縁があったようです。二十五年ほど前、「朝来るから朝日新聞、毎日来るから毎日新聞、美術に関する月刊誌なら『月刊美術』がいいじゃないか。」と藤井さんによって命名されたと、サンアート顧問・中野稔氏からお聞きしたことを思い出します。
 日本の経済はその後急カーブを描いてバブル化していったことはご存知のとおりで、藤井さんも東京美術倶楽部の社長をはじめ業界の要職につぎつぎ就任され、名実ともに斯界の指導的地位を確立されました。海外のオークションで印象派の名品をつぎつぎに落札し、内外のマスコミにも登場され、その行動力はそれまでの銀座の画商のイメージを大きく塗り替えていかれました。
 1988年には、ニューヨークのソーホーにあったミリケン画廊で私の個展を開いて下さいました。ある日、藤井さんとミリケン氏が展覧会の条件を詰める現場に居合わせることがありました。通訳の女性をはさんでの緊迫したやりとりを目撃し、氏の硬軟とりまぜた巧みな交渉術の妙を垣間見ることができました。またニューヨークでのオープニングパーテイでは、見上げるように大きな外人に囲まれてもいささかも見劣りのしなかった堂々たる存在感が目に浮かびます。

無邪鬼・1

無邪鬼・2
 その年に、藤井さんは勲章を授与されました。折悪しく昭和天皇の病状悪化と重なったため、祝賀会などを自粛されるかわり、お祝返しの記念品を私に作るよう依頼されました。私は、どことなく氏を彷彿とさせる「無邪鬼」という二態の鬼の文鎮を作りました。これは私にとっての記念すべき最初のブロンズ作品となりました。
その後、五都美術商連合会の「現美展」に最年少で推薦して下さり、フジヰ画廊主催の大家ばかりが並ぶ「潮音会」の末席にも加えていただき、TOKYO ART EXPOにも出品させてもらいました。そんな氏の期待に応えようと、私は一生懸命に作品を作りました。藤井さんの驚く顔が見たいばっかりに作品を作っていたといっても過言ではありませんでした。画商と作家の本当に幸せな関係でした。
 すべての公職を退かれてからは、眼に入れてもいたくないお孫さんを何度も私の工房へ連れて来られました。私に観察させて、「童子」の参考になればとお考えになってのことでした。また、最盛期の貴乃花を見せてやろうと、相撲見物にも連れて行って下さいました。そうしたお気持ちを、こころから有り難いと思いました。しかし、お会いするたびにお体が衰えていかれるのを見るのは悲しくて仕方ありませんでした。
 去る3月26日、藤井一雄氏が静かに旅発たれました。持病に加え、司法当局との係争を抱えながらの晩年は、もちろん不本意であったでことでしょう。しかし暖かいご家族に囲まれて過ごされた日々は、きっとお幸せであったことと思います。
 私が今日、彫刻家として存在するのは、いま書き綴りましたように「藤井一雄」という不世出の画商に見出され世に送り出されたからにほかなりません。そのことをいつも肝に銘じています。

 藤井さん、ほんとうにありがとうございました。どうかゆっくりと、おやすみ下さい。

花祭りの童子

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