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文献資料-1
工芸学会通信
(1987年3月1日号)より転載
文献資料-2
月刊美術
(1989年4月号)より転載
彫刻家
籔内 佐斗司さん
 ヒノキという仏像彫刻の古典的な素材と、彫刻刀とノミという古典的な道具から、エスプリとユーモアあふれる現代的な造形が誕生する。若手彫刻家として期待の籔内佐斗司さんが個展(1/7〜1/20・フジヰ画廊アートサロン)を開いた。また大学では保存修復技術研究室助手として、古い仏像の修理や模刻を手がけている。
瞬間の立体化
 僕の仕事は動作の一瞬を立体化したのもです。スローシャッターで撮影すると、動いてるところは消え、静止している部分は鮮明に写ります。その鮮明なところだけ見て欲しい。これを名付ければ瞬間相。瞬間相を次々繰り返し、いくつかの像を並べて表現すると、「連続相」。動と静、男と女など対比させると「あ・うん相」、一つ一つ独立して、しかも変化していくのものが「変化相」、そして昨年から動物シリーズを始めました。
芸術は魂とか無形のものを形に表わしたものだという考え方が正統的ですが、私の場合、魂はいらないんです。鎧とか、仮面、骸骨、セミの抜け殻、そしてゴテゴテしたものが好きで、そういうものを作るのが眼目です。
古典との出会い
 学生のときにヒノキと、彫刻刀とノミをもって仕事を始めたところが出発点です。当時、彫刻科の学生が木彫をやる場合には、丸太を買ってきてチェーンソーでバリバリやるというヨーロッパ系のつくり方が主流でした。しかし僕は、軽い木で、片手で持てるような小さなものを使いたかったんです。そこでヒノキに出会い、道具は彫刻刀とノミ。材料と道具が同じであれば、でき上がってくる結果は、どうも同じみたいですね。ハタッと気がついたら、日本に古くからあった仏像彫刻の技法である寄せ木造りと、ひじょうに近いことをやっていました。
触感の芸術
 彫刻はやはり触感の芸術だと思います。工芸品は触わるでしょう。掌で弄んで快感を楽しむようなところがありますね。立体造形は、さわってみたいという気持が形を生み出すという面があると思うんです。だから、僕の彫刻も触って欲しいですね。
  つくる場合も触感的なんです。たとえば僕のつくる動物は犬、兔、猫と身の周りの動物ばかりです。犬も兔も飼っていたから掌で覚えています。デッサンの必要はありません。さわっちゃう。その感じでつくっちゃう。仏像の模刻をするときも、寸法を測るより、掌でさわってみると「あ、ここが違うな」とすぐ分かります。
童話シリーズを
これからは二メートルを超えるような大きな作品と、掌で楽しむような作品の両方をつくっていきたいと思います。
作品としては童話シリーズ。手始めは桃太郎。髷と鉢巻きをつけた少年の頭と、従者の犬、猿、キジの頭をワンセットにして並べてみようと。そのうちに西遊記や金太郎も。それと体の動きを表わす作品に取り組んでいきたいと思います。
今月のこの作家・この作品
籔内佐斗司
保存修復で学んだ
時代を超えて生きる
本物の技術
 
近年、具象系彫刻の分野に新しい局面が開かれはじめている。
ブロンズや石彫に押され気味だった木彫の世界に30代半ばのイキのいい作家がぐんと育ってきたのだ。
 ここで紹介する籔内佐斗司さん(35)もその代表的な一人。古美術の修復にたずさわりながら"温故知新
"独自の造形世界を切り開き、コレクター層からも熱い視線を浴びはじめた籔内さん。東京の下町・浅草に江戸職人の仕事場を思わせる粋な工房を訪ね、これまでの歩みとその創作意識をお聞きした。

魂より抜け殻に興味 

籔内さんのお話を聞いていて面白いのは、すべてが明治以降のいわゆる近代芸術の柱になっている"お題目"の逆を志向していることだ。いわく「形より魂」いわく「技術より心」そして「個性の尊重」これらの近代ー現代をつらぬく芸術教育の基本イデアは言葉として燦然と輝いては見えるものの、それが実際にもたらしたものは、浮薄な個性の競い合い、制作現場での師弟制の崩壊による伝統的技術継承の危機、そして、芸術作品の実生活からの乖離的不毛な状況であった。

学生の頃から個性重視の教えに対する不信感が
ありましたね。大事なのは個性ではなく後世に伝えるようなものを持っているかどうかだと思っていましたし、今でもそれは変わりません。「魂より抜け殻に興味がある」という作家の弁にもロダンをその造形の手本にしてきた白樺派文化人的彫刻観に対する強烈なアンチ・テーゼが込められているようだ。
絵の勉強から彫刻へ
籔内さんは昭和28年、大阪・阿倍野に生まれ育った。堺は戦災でその古いたたずまいは一掃されていたが、それでも鉄砲屋敷や刀鍛冶などの昔の香りを伝えるようなところがいくつか点在していたという。
 小さい頃は体は強い方ではなく小児結核で自宅療養をしていた時期もあった。

ものを造るのはその頃から好きで、紙粘土で犬
を造ったり、紙でオートバイを作ったりしてましたね。あまり明るい少年時代ではありませんでした。
 ものを作ったり絵を描いたりするのが好きだった籔内少年は当然のように絵描きをめざすようになり、高校生でははっきり進路として芸大受験にターゲットを絞っていた。昭和47〜48年といえば未曾有の"絵画ブーム"のさ中、受験界にもその波は押し寄せ東京芸大の油絵科は50〜60倍の倍率に達したという。

当時の私はフランドル派や北方系の絵が好きで
短時間でまとめるような絵は苦手でした。一浪まで絵で受けましたが、その後彫刻に方向転換して入学。でも結果論ですがこの受験期に古典的な絵に傾倒していて良かった。彩色はほとんど絵の世界ですから。
保存修復の助手を5年
学生時代は時代の潮流に敏感なもの。入学した49年から50年にかけてはまだ抽象の仕事をする先生は少なかったが、学生の中には具象に対するアレルギーというのか、具象の仕事を時代遅れと見る風潮もあったという。しかし籔内さんは抽象表現主義の傾向の作風も馴染めず黙々と手応えの感じられる造形を追い求めていた。そして大学院(澄川喜一研究室)で素材を檜に絞り、大学院終了後、保存修復技術の講座に参加、文化財の修理を通し昔の寄せ木造りの技術、漆、彩色な
どの技術の宝庫に学ぶことができた。

古典の素晴らしいことは、多くの人が何代にも
わたって繰り返してきた力があることです。その時の風潮がもてはやす個性など違って、長い間と多くの人々の手によって裏付けられたゆるぎないものを感じます。
 保存修復の道へは大学で身につけた技術で"食べてゆく"具体的な道という現実的な選択でもありましたが、それによって学んだ物は現在の作家としての私の形成に大きな力となっています。
昨年はニューヨークでも個展
 ここで、籔内さんの発表活動を簡単に追ってみよう。最初の個展は昭和54年、東京・神田の駒井画廊での発表。女性の人体をモチーフにからくり人形風に制作したもので、この作品は現在開館準備中の徳島の県立美術館に収蔵されている。
 その後、数回貸画廊などで等身大の素木の人体像による個展を開催。そして60年銀座のみゆき画廊での個展で木彫に漆を塗り彩色したお面にポイントをおいた作品を発表。この年あたりから東京、大阪等で画廊企画の個展が頻繁に開催されるようになる。特に一昨年の銀座、フジヰ画廊モダーン、現代彫刻センターでの個展は美術コレクター層にも"新進木彫家ここにあり"の印象を強烈に焼き付けた。そして昨秋、ニューヨークのソーホーにあるミリケン・ギャラリーで初の海外展も実現。その名と作品は加速度的に美術界に広まっていった。

今考えてみるととても運が良かったと思います
。受験期に絵を勉強したこと、彫刻の選択、保存修復にたずさわったことその全てが今の私に生きているんです。
 ちょうど木彫がブームになる時に「鳳の会」(銀座・柊美術展)で力のある画商さん達と知り合えたこともそうですしね。
形而下の面白味
 それでは籔内さんの彫刻観、制作意識をもう少し具体的に追ってみよう。モチーフは人体、動物、面と多彩であるが、そこに一貫して求めているものは、「魂が宿っていたものの殻としての形態」であろうか。

形に固執すればする程空気との接点である皮膚
一枚のところが面白くなってくるんです。
 今まで形而下のものとして軽んじられていた触覚的なもの、さわって面白いもの、仏教用語でいう"色"ですね。「美の神は細部に宿りたまう」といいますが、そんな意識に通じるところでコツコツと仕事をしています。
実生活に生きる置物として
 次に製作工程。素材は木曽檜。四角い規格材を作品のサイズに切り、粗彫りをする。イメージに合わせ仕上げると、塗りものとほぼ同じ行程で漆を下塗る。このために表面の彩色がとれても漆地による古式の趣がかもし出される。塗りはほぼ10工程で、金箔やプラチナ箔を漆箔することもある。彩色は顔料と膠とアクリルで定着させる。

私は彫刻の基本は「置物」にあると考えていま
すから、買っていただいた人の身近で触られながら、愛着を持たれるような作品がいいなと思ってます。ですから彩色も持主の人の手で触れられ味が出て完成するのかもしれません。
 昔は四季折々の生活空間に生活と結びついていた人形や置物が、今や俗に落ちるか、芸術品として生活から離れてしまった。地についた鑑賞空間をとり戻したいですね。
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